企業の成功法則 社長力・管理力・現場力 三位一体論
社長力
2024年8月号
国家の財源は企業活動の盛衰にある
社長力とは「先憂後楽」の精神です。指導者たる者は常に先に憂いを持ちます。「それならどのような場合に楽しんだらよいのか」との問いに対する答えは、「天下の人々が楽しむことを後れて楽しむ」味わいです。
立派な人は己のことで悲しまない
『岳陽楼記』を遺した范仲淹は二歳で父を失い、幼い頃から貧しい中で学問を修め、若いときから大いなる節操を持った北宋の政治家です。富貴・貧賤に惑わされず、自分は国家の大事に任ずるものであると、指導者の在り方について本音を述べています。朱熹の『小学』にも生い立ちが記されています。
つまり、「指導者の基本は、世の人がまだ心配しないうちから心配の種を集め、その上で憂いを持ちながら、先に解決の手を打っておくものである」と述べています。その上で、「世の人々が楽しむようになってから、その楽しむ顔を見て初めて自分も楽しむ」という、為政者としての基本態度に触れています。社長の在り方もまったく同じです。
従来から、政治にはお金がらみの問題が多くあります。現在は政治資金パーティーによる不記載問題、使途不明の政治活動費や領収書などで、政治不信はピークを迎えています。記者会見での総理の発言も、①国を憂い②国家の財政問題を憂い③不安定な国際社会での「安全保障政策」も④明確な政治理念も⑤国家のビジョンも示せていません。特に「選挙妨害」の映像などは見るに堪えないものがあります。
范仲淹は、修復された岳陽楼から見た世界を顧み、思考を巡らせます。岳陽楼とは中国湖南省にある楼閣で、眼下に洞庭湖、北に長江を臨む「江南の三大名楼」の一つです。
古の立派な人と、現在の人が異なるのはなぜだろうか。立派な人は、「外からの影響では喜ばず」「己のことで悲しまない」「高い位にあるときは国や民衆を常に思い」「官位を離れたときは常に国家の行き先を憂う」。すなわち、政治の中心にいても民間にいても、国や民衆を第一に考えるのが指導者なのだ。とすれば、為政者は、いつ楽しむのだろうか。天下の人の憂いに先立って憂い、天下の人の楽しみに後れて楽しむものなのだ―と。
国が滅びる理由を指摘した李文叔
同じ時代の書物『洛陽名園記』に、国が亡びる理由を述べた文章があります。唐の太宗(世民)が統治して「貞観の治」(中国史上最も良く国内が治まった時代といわれる)を築きながら、次々に起こる内憂外患に対して、国の高位高官にある者が無関心で、「自分一人の私欲を発揮して、いつの間にか自分の豪華な庭園を造るのが目的になった」と憂う内容です。言い得て妙です。
長安は都ですが、洛陽は軍事上重要な都市で、四方の国々が手に入れたがっています。平時はいいけれども、事が起きると洛陽が最初に戦禍に見舞われる。著者の李文叔は、「洛陽の盛衰は、天下治乱の候(兆候)なり」と伝えています。日本もおちおちしていられないはずです。
高位高官が国益にならぬことで諍い、各国の兆候や世界の情勢や国内の財政など、大局的に見ない愚かな政治家や官僚に不満を持った章だと思います。
社長力とはいついかなる時も「先憂後楽」の精神を持つ力です。中小企業の社長なら、一己の私を放(ほしいまま)にできないはずです。そういう余裕もない。
ここから、作者・李文叔の本音に触れます。
「嗚呼、公卿太夫、朝に進むに方り、一己の私を放にし、自ら之を為りて、天下の治忽を忘るるときは、退いて此れを享けんと欲するや、唐の末路是のみ」と述べ、国が滅びる理由を指摘しています。
公卿とは諸侯のことです。太夫はその下の地位であり、「士」がその下でいろいろな職分を司ります。ここでは国の命運を担う立場と解釈してもいいでしょう。朝は朝廷・王朝、一己の私とは「任務や義務を忘れ去った私」の意味です。放にしとは「好き放題に」と理解してください。つまり、国民のことを憂いもしないで、国民の税金から出た政治活動費をなんら明確に説明もしない。説明責任を放棄してもそれらを取り締まる法的縛りもない。国民の常識では無法と感じます。
本記事は、月刊『理念と経営』2024年8月号「企業の成功法則 社長力・管理力・現場力 三位一体論」から抜粋したものです。
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