企業の成功法則 社長力・管理力・現場力 三位一体論

今こそ必要なのは「モーレツに巻き返す人財」である

吉田松陰は時間に敏感でした。時間は「いのち」だからです。30歳で刑死しますが、『留魂録』でその死生観を記しています。長く生きたかどうかは問題ではなく、成すべきことを成したかどうかの「問い」を自らに突きつけながら、生きおおせたのです。

松陰が遺した”日本人の忘れ物”

 吉田松陰は一八三〇(文政13)年、長州萩城下の松本村(現山口県萩市)で、二六石取りの下士、杉百合之介の次男として誕生しました。松陰に影響を与える叔父の玉木文之進や、同じく叔父の吉田大助も同居し、家
族そろって屋根葺き、田植え、馬洗いなどの労働をして家計を保ちました。働きながら父百合之介が古典などを朗誦し、幼少の松陰も父の朗誦に続いて口ずさんで学んだようです。
 孔子の「吾少かりしとき賤し。故に鄙事に多能なり」(『論語』「子罕第九」)の章句も口ずさんだのでしょうか。杉家の教育法でさまざまな基礎となる価値観を身につけました。松陰にとっては田んぼや屋根や馬場が学校であり、実践や書物を通して自然の恵みや恐さなどを体験的に学んだことが、松陰の人物をつくり上げたように思います。
 社長力は学問と実践から生まれてきます。学問とは「人の道」「人物学」「人間力」です。志を高く持つ力のことです。われわれが主張する可能思考メソッドは、「人間力・考える力・感謝力」を基礎・基本と捉え、書物だけでなく「体験」「実践」を大事にします。
 「考える力」は、社長や幹部には欠かせぬ要素です。困難や苦境は「人間力」と「感謝力」に加え、課題の解釈能力、つまり「考える力」が解決の原動力になります。解釈力が欠如するのは「不可能思考」のときです。「不可能思考の厚い壁」を自らが除去するための支援を、われわれが行うだけです。この不可能思考が日本社会に蔓延していることから、「グロースカレッジ・モデリングメソッド」を始めました。
 仕事力は企業経営に大事ですが、基礎・基本の弱さが仕事力の習熟度を妨げます。規律が多いのは自律の欠如からくると松陰は考えています。

一五歳で藩主に『孫子』を講じた

 松陰は、五歳のときに叔父吉田大助の養子になり、翌年六歳で、叔父の急死により家を継ぎます。吉田家は山鹿流兵学師範であり、毛利家に仕えた五六石取りの中士です。
「志に根ざさない知識は人をあやまる」「勇気のともなわない知識は曇る」「知識がなければ何をしていいか分からぬ」など、松陰は幼いころから、知識と実践の大事さを「兵学」で身につけました。九歳で実践教授見習いとして明倫館に学び、一〇歳で実学教授になります。アヘン戦争が起きた一一歳のときには藩主に「武教全書』を講じています。
 さらに、一三歳で玉木文之進が起こした松下村塾で学び、一五歳で「孫子』を藩主に講じていますから、海外の状況や日本の防衛について、すでに考えていたのです。時代が違うとはいえ、一六歳の頃はすでに大局を見る目を養っていたことがうかがえます。
 松陰は二一歳のときに、私の故郷・平戸(長崎県平戸市)を訪れます。家老職にあり、山鹿流兵学や陽明学で名を成す葉山佐内の門を叩きます。密かに「兵学では西洋に敗れる」という危機感を持っていた松陰は、その
解決の糸口をつかみたかったのです。
一八五〇(嘉永3)年九月一四日に到着して、その日に佐内に借りた「伝習録』を読み、佐内著の「辺備摘案」を書き写します。松陰は平戸で変革者になったと、徳富蘇峰先生はその著『吉田松陰』で述べています。
 翌、二二歳で江戸留学をしますが、①佐藤一斎の西洋無視の学問姿勢に疑問を持ち、②山鹿流兵学の宗家の山鹿素水は参考にし、⑤佐久間象山には西洋について学ぶ
ことが多いと、手紙を送っています。
山口県は、歴史的にも偉大でモーレツな人物を世に送り出していますが、松陰はその代表でしょう。江戸の学者に飽き足らず、江戸留学からそのまま脱藩して、肥後(熊本県)の宮部鼎蔵と東北の旅に出かけます。「一藩
の中における自分の地位よりも、国家の危機を救うことに勝ちを置いた」からです。

本記事は、月刊『理念と経営』2022年8月号「企業の成功法則 社長力・管理力・現場力 三位一体論」から抜粋したものです。

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