企業の成功法則 社長力・管理力・現場力 三位一体論

店は、私の心を鍛える「道場」だった

社長にはアウェアネス(気づき)の力が欠かせません。企業経営の根幹は、財力でもなく、社会的名声でもなく、何に気づき、その気づきをどう活かしているかです。「いのち」に目覚め、尊いいのちを育んでくれた人を、絶えず意識していく力が社長力です。

私が仕えた最初の長浦乙吉社長ご夫妻

 一九六一(昭和36)年三月下旬、中学を卒業すると同時に、私は大阪の鮨店に勤務すべく、長崎県佐世保駅から大阪に向かいました。集団就職列車といえば笑われそうですが、まるで故郷を追われるような気持ちで平戸島を後にしました。幸い小学校や中学校では恩師に恵まれ、今でも苦しいときの心の大きな支えになっています。
 山本有三の「路例の石」や、田班花袋の「田舎教師」、室生風星の抒情詩などの愛読書には、当時の繰り言や願いを書きこみ、日付や時間を「分」まで細かくメモしています。私の「いのち」の記録です。
 私は決して良い使用人ではありませんでした。朝は午前一一時前に店に行き開店までの準備をし、仕事が終わるのは翌日の午前五時です。自分の希望で勤めたわけではなく、何か失敗して叱られると悔しさから反抗的な態度をとっていました。
 親方の長浦乙吉社長は石川県羽咋市紫垣の出身で、反抗的な私に目配せしながら庇ってくださいました。しかし、職人気質の厳しい躾ば容赦のない世界です。先輩職人さんには高下駄で蹴られたり、出対包丁で眉識を叩かれたり、恨みに思うときがしばしばでした。
 良子夫人は同じ羽咋市の千里浜出身で、二年後に私と同じように借金の形として来た弟をかわいがってくださいました。月に一度の映画鑑賞は、店をクローズして全員参加し、楽しいひとときでした。夏は約一週間の休日を皆でとり、車数台でご夫妻の故郷に行き、千里浜海岸を歩いたり柴垣の海で泳いだりしました。今もご夫妻と三人で撮った写真を坐禅室に置いて、忍耐することの大切な教えに感謝して手を合わせています。ただ、勉強することには大反対で、仕事が終わってからの通信教育での教科書は何度も捨てられました。「田舎教師」や「路傍の石』などの書物は必死に守りました。六〇年過ぎた今でも当時の本を開いてメモを読むと、どんなにつらくても我慢できます。店は、私の心を鍛える「道場」だったのです。

厳しい山本精一社長との出会い

父の借金を返済し終わった六六(同41)年に夜逃げし、ご迷惑をかけました。夜逃げする寸前、乙吉社長から「ご苦労さんやった。今日で借金終わったな」の言葉をいただき、一瞬怯みましたが、今でも人の温もりを感じる一言です。羽咋の墓石に線香をあげながら、父が困っていたときに借金の一部を肩代わりしてくださった乙吉社長の写真に、今もお名前を呼んで、恩知らずのお詫びをしています。
 私も経営するようになって何度も裏切られました。しかし、恩を仇で返した者も、必ずいつかわかるときがくると思います。自分の体験を振り返ると、結局わかるまで待つしかないのです。わからなければそれは本人の問題だと思っています。気づく力が弱いのです。
 夜逃げしてお客様の家でかくまってもらい、当時、大阪の大劇前にある「はつせ」という大衆食堂でお茶配りのアルバイトをし、旅費が貯まると福岡の音羽鮨に勤めました。そこで山本精一社長と出会います。私が仕えた二人目の社長です。
 山本社長は、店に来られると社員さんが怖がるほど厳しい人でしたが、私が叱られたのは一度だけです。私が大阪で起業し、数店舗を持った頃、がんで入院されていた山本社長の病室にお見舞いに伺いました。そのとき、私の部下が病室でコートを脱いだ
のです。敵どころではありません。「君は何を社員に教育しとるんだ。ダスターコートを病室内で脱ぐ者がいるか!」と、身震いするほどのお怒りでした。
 そんな山本社長に諭されて、私は鮨屋になり、その後、大阪に戻って店を持ったのです。人手が足りないときは電話でお願いして人を派遣していただき、「意羽鮨」の屋号も頂難しました。

本記事は、月刊『理念と経営』2022年2月号「企業の成功法則 社長力・管理力・現場力 三位一体論」から抜粋したものです。

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