
今回も多数の応募をいただきました。そのなかから、厳正な審査を経て入選作10編を選び、2017年1月18日、グランドニッコー東京 台場において小檜山博氏(作家)、窪島誠一郎氏(作家)、金子和斗志氏(アイ・ケイ・ケイ株式会社代表取締役社長)による公開選考会を行ない、上記のとおり決定しました。最優秀賞および優秀賞につきましては、「理念と経営」3月号に掲載いたします。
大賞発表
-
「顔も名前も分からない恩人の方へ」
吉川 紀美代 さん

-
「使命に気付かせてくれた叔父にありがとう」
橋本 明元 さん
-
「産まれてくれて、産んでくれてありがとう」
増田 龍美 さん

-
「兄が教えてくれたこと」
井手 信一朗 さん
-
「スーツが変えた息子の歩む道」
太田 智英子 さん
-
「待っててね」
清沢 真人 さん
-
「母の背中」
朝野 愛子 さん
-
「私を救った言葉」
中台 純子 さん
-
「兄さんの絵本」
松浦 りえ さん
-
「生まれてきてくれて ありがとう」
松岡 美奈子 さん

最優秀賞
「顔も名前も分からない恩人の方へ」
吉川 紀美代 さん

私には日本の何処かに顔も名前も分からない恩人がいます。
健康だった主人に、その時は突然にやって来ました。原因不明の腫れと痛みに主人は立つ事も歩く事も出来なくなってしまったのです。私は突然の出来事に理解が追いつきませんでした。主人は他の血液の癌と急性骨髄性白血病を二重に発症していたのです。目の前の現実をなかなか受けとめる事が出来ず、これからどうなって行くのだろうという不安しかありませんでした。
病状は進行しており、抗がん剤だけでは完治出来ない為、抗がん剤治療を進めながら骨髄を提供してもらえるドナーを探さなければなりませんでした。抗がん剤の投与が始まり、主人の髪の毛は抜け、吐き気を催し、食欲も減退していきました。
同じ頃、骨髄移植についての説明を受けました。骨髄を採取するのにもドナーの方の身体にリスクを伴う事や骨髄を提供する為に健康な体でいないといけない事、仕事や家庭がある中、骨髄採取の為に日程の調整も必要となる事を知り、生半可な気持ちでドナーにはなれないのだと思いました。
何度目かの抗がん剤投与の際、主治医からドナーの候補が見つかったと連絡を受けました。主人が移植に向けて、かなり強い抗がん剤投与を受けている頃、この日本の何処かで主人を救う為に共に力を尽くしてくれている人がいると思うと本当に感謝でした。その方が身体無事に採取が終了する事を一心に願っていました。
骨髄移植は抗がん剤投与よりも体力的にも精神的にも主人には厳しいものになりました。主人の年齢で移植直後の生存率は50%でしたが、免疫反応の症状はやがて落ち着いていきました。
その頃、ドナーの方にお礼の手紙を送りました。すると体調を気遣っていただくお返事が届きました。その優しさに涙が溢れました。今も元気で過ごしている主人の事、伝えきれぬ感謝の気持ち、お伝えしたい事は山ほどありますが、協会の規定で、お礼の手紙も移植後、1年迄となっている為に今はお伝えする事が出来ません。主人の中にはドナーの方の遺伝子が生き続けています。ドナーの方に頂いた命を、私達は大切にして移植5年後の壁を乗り越え必ず生きていきます。
顔も名前も分からない主人に、深い温情を頂き本当に有難うございました。
優秀賞
「使命に気付かせてくれた叔父にありがとう」
橋本 明元 さん

私は父が中国人、母が日本人のハーフとして生まれました。幼少期の頃は、中国の血が入っていることが嫌で仕方がなく、そのことをいつも周りの友達に隠していました。ただ、幼稚園の時に名字が王であったことを知っている友人がいたり、名前が明元(みんげん)という中国の名前であるので、すぐにバレてしまいました。習い事のプールに行っている時に、「中国人はサウナに入ってくるな」と言われて、外で待っていたことは、今でもハッキリと覚えています。
私の人生が大きく変わった転機は、社会人2年目の際に祖父の故郷を見に行った事です。祖父は14歳の時に口べらしとして日本に来たのですが、その後一生懸命に仕事をし、今の会社を創業しました。叔父が、自分達のルーツを知る旅をしようと言ってくれたので、親戚一同で楊州の故郷へ行きました。
故郷に行き、あまりの貧しさに驚きました。水道、ガス、トイレはなく、床は土の家でした。通訳の方が、今でも貧しい地域ですが、祖父が生まれた時代はもっと貧しかったと詳しく説明してくれました。そして、周りの草を食べながら生きていて、日本に行った時の夢は、豚肉をお腹いっぱい食べることだったと聞いた時には、自然と涙が溢れてきました。
私はその時に2つの思いが生まれました。1つは、自分に中国の血が入っていることに誇りを持って生きたいという思いです。広大な土地を見て、自分のルーツを知ることで、アイデンティティが確立出来ました。そして、中国と日本のハーフである自分の使命は、中国と日本の架け橋になることだと気づきました。それ以来、不思議と聞かれなくても、自分の方から、中国の血が入っていることを言えるようになりました。
2つ目は、祖父がこれほどまでに苦労して創業した、株式会社王宮を潰してはいけないという思いです。以前は、社長の息子が能力もないのに、後継者になることに疑問を感じ、別の会社に行っていましたが、自分に力をつけて必ずこの会社に戻って来て応援させて頂くことが、天国に行った祖父への恩返しだと思いました。
今、私達は外国人のお客様に日本を好きになって頂くことを使命にしたホテルを経営しています。これは、自分の使命と合致しているので、確信を持って頑張れます。使命に気付かせてくれた叔父に心から感謝しています。
「産まれてくれて、産んでくれてありがとう」
増田 龍美 さん

笑顔のかわいい孫のすばるは6歳の女の子です。
しかし、すばるは自分の名前を言うこともできません。すばるは知的障がいのある自閉症児なのです。
小さい時から引っ込み思案でマイペースだった長女が、よきご縁に巡り合い、初めての子を出産した時「これで親の務めがまた一つ果たせた」とホッとしたのを覚えています。しかしその喜びも束の間、すばるは産まれてすぐに新生児救急治療室に運ばれました。そして検査の結果「22Q欠失症候群」という22番目の遺伝子に異常のある病気であると分かったのです。「おそらく、すばるちゃんのペースでゆっくりと成長していくと思います」と告げられた先生のその言葉の通り、すばるはゆっくりと育っていきました。体も小さく、ハイハイも歩き出すのも普通の子よりも遅かったけれど、それなりに「自分のペースで」成長しているように思えました。
やがて長女は2人目の子どもを出産し、その時に長女本人も同じ遺伝子の病気を持っていることが判明しました。さらに「3歳を過ぎれば少しずつ言葉も理解してお姉ちゃんらしくなってくるはず」という私たちの期待もむなしく、成長と共に動きが活発になっていくすばるには「自閉症」という診断がされたのです。
テレビも絵本も興味を示さず、好きなものには突進していくすばる。買い物でもレストランでもお構いなしに奇声を上げて人様のところに手を出そうとするすばる。まじめで不器用な長女にとって、こんなすばると3つ違いの手のかかる妹との2人の子育ては、毎日が想像を絶するようなパニックと先の見えない不安の連続です。
すばるが私の孫に産まれてきた意味をずっと考えてきました。そしてその中であの事件が起きたのです。
「障がい者はいないほうがいい」
犯人のあの言葉は日本中を震撼させました。しかし障がいのある人とその家族には、自分自身に突き付けられた刃です。その時に私には、はっきりと分かりました。すばるは私たちに大切なことを教えるためにやって来たのだということが。
その名前の通り、宇宙からの贈りもののようなすばる。すばるのお蔭で、たくさんの人の助けを頂くことが出来ました。自分の心の狭さや未熟さを知りました。
私の孫に産まれてきてくれてありがとう。そして娘よ、すばるを産んでくれて育ててくれて、ありがとう。