
今回も「心に残る、ありがとう!」体験談へ多数のご応募をいただき、誠にありがとうございました。2025年1月21日、グランドニッコー東京 台場(東京都港区)で行われた新春経営者セミナーの席上にて、公開選考会と贈賞式を開催いたしました。各選考委員の厳正な審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、選考委員特別賞1編が決定いたしました。
大賞発表
-
兄よ、生まれてきてくれてありがとう。
木庭 康輔 さん

-
ありがとうは喜びを伝える言葉
今津 恵保 さん -
私たちが受け取った、圧倒的なgiveに対し
加藤 有里 さん

-
私の宝物
山本 実美 さん

-
レインボーなしごと
井手 隆太 さん -
人生観が変わる時
蔵満 裕子 さん -
心に残る、ありがとう!
玉置 隆生 さん -
産んでくれてありがとう
滑川 惠三 さん -
大阪逸の彩ホテルの朝食スタッフにありがとう
橋本 明元 さん -
両親に対してのありがとう、感謝の気持ち
平尾 由季 さん -
さん

最優秀賞
兄よ、生まれてきてくれてありがとう。

私の兄は、知的障がいがある。兄が他の人と少し違うと思ったのは、小学一年生の時だった。計算が遅く、人と話すことが苦手で、怒ると誰にも手が付けられないぐらい感情を爆発させる。当時の私には、障がいという概念は分からなかった。だが、兄の生きづらさは一生解消されないのではという不安があった。次第に私は兄の存在を疎むようになった。意地が悪い兄の同級生の嘲笑、からかいのターゲットが私に回ってきたからだ。
当時は母も兄の障がいを受け入れる事ができず、母に助けてもらいたい一心で「兄には障がいがあるのでは?」と相談をしたら、泣きながら全力で叩かれ、互いに傷つけあったこともあった。年を重ねるごとに、兄の生きづらさは増していった。高校では激しいイジメにあい、卒業後は家に引きこもっていた。兄が障がい者手帳を取ったのもその頃だった。事業所で虐待の被害にあって、トラウマになった時期もあった。そんな兄の辛さ、悲しみも当時の私はどこか他人事のように感じていた。
そんなある日、兄が「俺だってこんな風に生まれて辛いんじゃ」と大粒の涙を流していた。その時初めて自分を恥じた。何故一番近くにいたのに傍観者の気持ちでいたのか。兄の気持ちを理解できなかったのか。兄の同級生と私は何も変わらない。心底情けない存在に思えた。その日以降、行動に変化があった。人の心の痛みが分かる、誠実で優しい人になりたいと思った。妻や多くの仲間と出会えたのは、兄のおかげで成長できたからだ。
現在私は亡くなった父が創業した障がい者就労支援事業所の経営をしている。障がいのあるメンバーたちが持つ高い能力と真の姿の発信をしている。私には、障がいで悩んでいる当事者の気持ちは分からない。でも兄のおかげで人の心の痛みが分かるようになった。障がいを持った子供がいて、悩んでいる両親の方々の気持ちが分かるようになった。兄のことを心から理解してくれる家族、仲間に出会えた。自分の成功ばかり考えていた父が社会全体のことを考えるようになった。障がいの有無に関わらず、誰もが幸せに生きられる「共生社会」を実現するという使命と出会えた。
数々の成長する機会を与えてくれていたのは、兄だった。今の私があるのは、貴方のおかげです。兄よ、生まれてきてくれて本当にありがとう。皆で、幸せに生きていこう。
優秀賞
ありがとうは喜びを伝える言葉

新型コロナが蔓延する前、私は身体障害三級で、杖を突いて会社に通っていた。スーツの上から肘プロテクターをつけ、歩く速さは分速二〇メートルくらいだったから、はたから見たら相当危なっかしかったに違いない。実はズボンの下には尻プロテクターと膝プロテクターを装着していた。ビジネスリュックを背負って、転倒してもケガをしないよう装備していた。
二〇二〇年一〇月、市ヶ谷駅で南北線から乗り換えて、都営新宿線のホームへ行こうとしていた時だった。「僕につかまってください」と腕を差し出してくれた人がいた。「ここはつかまるところがありませんからね」とその人は言った。見ると金髪で、上下水色の作業服を着た若者だった。彼はこの近くのビルで内装の仕事をしており、府中まで帰るところだと言った。彼にはその後も何回か助けてもらった。彼は岡崎さんという名前で、実家は栃木、おじいちゃんも脚が悪いそうだ。二回目に助けてもらった時のことが強く印象に残っている。歩くのが遅い私と一緒だから、彼は電車を二本も見送ってしまった。早く家に帰りたいだろうに。私は申し訳なく思い、「すみません」と言った。
すると彼は「すみませんなんて言わないでください。僕が何か負担になることをしているような気がするから。お手伝いできて嬉しいんですよ」と言う。それを聞いて思わず「すみません」とまた言ってしまった。二人で笑って、私は「ありがとうございます」と言い直した。そうだ、こういう時は絶対「ありがとう」なんだと思った。ある障害者が書いた記事を新聞で読んだことがある。人に助けてもらった時、日本人は「すみません」と言いがちだが、いつもすみませんといっているとみじめな気持ちになる。だから努めて「ありがとう」というのだという。それで私も「すみません」とは言わないように意識していた。でも、言われる方の身になってみると、「すみません」と「ありがとう」は全然違うのだなあと改めて思った。「ありがとう」はこちらの喜びの感情を相手に伝える言葉なんだろう。
その後、新型コロナが蔓延して私は二年ほど在宅勤務となった。その間に六五歳の定年延長も終わりを迎え、電車通勤もなくなった。彼はどうしているだろうか。もうお会いすることはないかもしれない。私は何もできないけれど、幸せをお祈りしている。短い時間だったが、話ができて本当に楽しかった。嬉しかった。心からありがとうと言いたい。
私たちが受け取った、圧倒的なgiveに対し

四年前の梅雨の日。ポストに届いた封筒。見覚えのある青。もう幾度となく手に取った骨髄バンクからの手紙だった。骨髄移植をする予定の息子のドナー最終決定の知らせが届いたのは、息子の誕生日だった。
中学校卒業間近に急性リンパ性白血病だと診断を受けた息子は予後不良群に振り分けられ、最初から骨髄移植ありきの治療方針が決まっていた。最初の治療と同時進行でドナー探しが始まり、検査の結果私たち家族はドナーになることが出来なかったので、骨髄バンクに登録していた。主治医からドナー探しの経過は聞いていたので多少の意識はしていたが、ドナー候補者がいても最終的な合意に至らないケースもあったり、ドナーとなる方の移植までの生活、日程や行程の説明もあり、顔も知らない赤の他人にここまで尽くしてくださる人が本当にいるのだろうかと漠然とした不安もあった。そして、いつか落胆を覚えることのないよう、自分自身に予防線を張っていたことも確かだった。
手紙の内容に間違いはないか何度も繰り返し読んだ。視界が滲んでいくのに対して、まだぼやけていた影の焦点がみるみる合っていき、しっかりと輪郭を持った人の姿が現れた様に思えた。息子に命を分けてくださる。生きろとチャンスを与えてくださる。私にも、これからも子育てをしろと時間を与えてくださる。そんな人がこの世の中に存在した。しかも、息子の誕生日にその知らせを受け取れるなんて。きっと誕生日でなくてもそうだったと思うけれど、やはり私にとっても特別なその日に知らせを受け取れた偶然も重なって、その日は何をしていても涙が止まらなかった。ドナーさんとは、骨髄バンクの規定でお会いすることは叶わず、顔も声も永遠に知る事が出来ない。けれど、間違いなく「運命の人」だ。そういう人が私たち家族の人生の中に出来た。あの日以来、息子の誕生日は息子が生まれたことを祝う日に加え、生きてきた中で口に出してきたどの「ありがとうございます」とも質量の違う、深い感謝の日となった。
かけがえのない家族が命に関わる大きな病気を患って、人生のどん底にいるような日々もあったけれど、そこからたくさんの学びを得た。振り返るとやはり、与えられているものの多さばかりに気付かされる。この文を書きながら想いを馳せる日々にも、思い浮かぶ多くの人々の顔や姿にも、いま一度、心からのありがとうを伝えたい。
特別賞
私の宝物

「もういい。こんな家出ていったる」
と言って私は家を飛び出しました。今から、八年前の話です。反抗期真っ只中だった私は、両親がすること言うこと、全てが嫌で、ひどい言葉を毎日言ってしまっていました。家を出て友だちの家に隠れていると、友だちのお母さんに、
「もう帰ってあげな」
と言われ、しぶしぶ帰っていました。すると遠くから、私の名前を呼ぶ両親がいました。泣きながら寒い夜に私のことを必死で探してくれていました。なのに私は、無視をし、家に帰りました。
それからも反抗期は続き、早く家を出たいと思うようになり、高校三年生の夏、家から通うことのできない所に就職がしたいと担任の先生に話をしました。そして親にはなんの相談もなしに、
「ここに決めたから、四月から一人暮らしをする」
とだけ伝えました。最初は、心配から、反対されていましたが、諦めて私の言う通りにしてくれることになりました。アパートの初期費用、家具、生活用品、全て不自由なく揃えてくれました。
そして四月、
「じゃあね」
「気をつけて。また何かあったら電話せえよ」
と会話をして別れました。アパートについて、荷物の整理をしていると、通帳が出てきました。開くと、コツコツ貯めたであろうお金が入っていました。その時初めて今まで本当に悪いことをしたなと思い、子供のように声を出して大泣きをしました。どれだけ突き放しても、どれだけひどいことを言っても、朝ご飯、昼のお弁当、夜ご飯は毎日あったし、毎日洗濯物も洗って畳まれていたし、夜遅くまで遊んで帰る手段がなくても迎えに来てくれたことなどを思い出しました。今までは、ごめんとありがとうをすぐに伝えられる距離にいたのにもう今は、すぐそばにはいません。後悔しかありませんでした。
しばらく日が経って実家に帰り、ありがとうとごめんを伝えると照れくさそうに笑ってご飯を出してくれました。
私の両親は、世界中で自慢できるお父さんとお母さんです。二人のような親になりたいと心から思う私の心に残る、ありがとう体験談でした。宝物です。
選 評
選考委員長

作家
小檜山 博 氏
人の愛と善意が人生をつくる
時代がどう動こうと、人を思いやる心があれば大丈夫という信念をつらぬく『理念と経営』編集部の、この企画に敬意を表します。
木庭康輔さんの「人の心の痛みがわかるようになった」に、眼をさまされました。加藤有里さんに命とは何か、愛とは何かを教えられました。今津恵保さんの文で「ああ世の中まだ大丈夫だ」と思う。井手隆太さんの教え子に育てられて成長する教師の認識が新鮮。蔵満裕子さんの周囲の人に励まされて気持ちを立て直す姿に感動する。玉置隆生さんの、仕事とは相手に喜びを提供することは、すばらしい。滑川惠三さんの親への反発と尊敬の変遷は成長の印。橋本明元さんの仲間の心に気づくは経営者の鑑[かがみ]。平尾由季さんは人は失敗と後悔によって成長することを教えてくれる。山本実美さんの親への反抗は自立への推進力とした感性がすばらしい。
以上、みな人生が人の愛と善意でつくられることを再認識させられる卓越したものでした。感動しました。
選考委員

無言館館主・作家
窪島 誠一郎 氏
自分の悔いを分ちあえる場
「心に残る、ありがとう!」体験談は、文章の巧拙や、読み手にどれだけ感動的な物語を届けられるかを競うコンクールではない。多くの人々が同じ体験を共有し、だれの人生にも思い当たるふしのある、自分にもそんな「ありがとう」があったな、という記憶をよびもどさせてくれるかどうかが勝負の場である。
幼い頃から生みの両親にも育ての両親にも親不孝をかさね、とうとう一度も「ありがとう」という言葉をつげることなく見送ってしまった八十三歳の老審査委員にとって、今回自分の悔いを分かちあえるいくつもの入選作品と出会えたことは幸せだった。開催に力をつくさた方々に、あらためて「ありがとう」と頭を下げたい気持ちである。

アイ・ケイ・ケイホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長CEO
金子 和斗志 氏
初めて人前で泣きました
今回は読めば読むほどに良さの際立つ傑作ぞろいで、選考では全員に特別賞あげようかという話が出たほどです。
中でも木庭康輔さんの作品には胸を打たれ、この年になって初めて、人前で泣きました。
私にも身体障がいを持つ兄がいますが、かつて兄の存在を疎んだことや、一番近くにいながら傍観者でいたこと、感謝を伝えなかったこと、そんな後悔を呼び起こす木庭さんの文章に、私はもうこの人しかいないと思いました。
また、コロナ禍でのホテル営業の経験を通じて、社員の本当の心に向き合った橋本明元さんの姿勢には経営者として尊敬の念を強くしました。他の八編も甲乙[こうおつ]つけがたく、本当に素晴らしい作品でした。改めて皆様に感謝を申し上げます。