第4回「心に残る、ありがとう!」体験談 贈賞式

本賞は、応募総数2,463編の中から、厳正な審査で入選作10編を選び、2013年1月22日、ホテルグランパシフィック ル・ダイバにおいて、
中西進氏(選考委員長・国文学者)、夏樹静子氏(作家)、山折哲雄氏(宗教学者)による公開選考会を行い、上記のとおり決定しました。
最優秀賞及び優秀賞につきましては、『理念と経営』3月号に掲載
いたします。

大賞発表

    最優秀賞
  • 「木と砂と本で出来た家」

    萱嶋 明子 さん

    優秀賞
  • 「お父さん、ありがとう」

    加藤 真弓 さん

  • 「あんちゃんありがとう」

    永島 裕子 さん

    入選者
  • 「こちらこそ、ありがとう。」

    荒井 聡子 さん

  • 「お父さんありがとう」

    髙橋 繁世 さん

  • 「教育」

    田島 匠平 さん

  • 「母へ」

    佐藤 京子 さん

  • 「ありがとう、人生目標!」

    田野 雅樹 さん

  • 「おばあちゃんありがとう」

    林中 利光 さん

  • 「一通のハガキ」

    廣永 智子 さん

最優秀賞

「木と砂と本で出来た家」

萱嶋 明子 さん

小さな頃段々と父が嫌いになった。そして、思春期になると、私達姉弟は父を無視するようになった。それは、一般の思春期特有のものとは別に理由があった。私達は時代遅れだった。

リモコン式の薄型テレビが主流となった時代でも、我が家は、修理に来た電気屋に鼻で笑われる位の立方体の小さなテレビ。コードレス電話が当たり前になった時代でも、我が家は、リンリンと鳴るダイヤル式の電話で親戚にも驚かれる、という具合である。そして、何よりも恥ずかしかったのが、木造で砂壁に囲まれた古い家である。

周りは洋風のおしゃれな大きな家に建て替わり、家に友達を呼ぶのが恥ずかしくてたまらなかった。私達姉弟は、みじめな思いをするのを父親のせいにした。父親にもっと働いて家を建て直してくれとか姉弟で暴言を吐いた。やがて私達姉弟は自然と父を無視するようになった。厳しいが寡黙な父は何も言わず毎日仕事に行った。

年月が経っても姉弟と父の関係はギクシャクしたままだった。私は三十歳を過ぎ、結納の前日、父と初めて二人で話した。その時寡黙な父がポツリと言った。

「お金は物にかけるんじゃない。人にかけるんだ」

その一言は私の体全身を走った。そして体が震えた。ずっと抱えていた父への疑問が全てやわらかに解けていくような気がした。そう。進学した時も、病気をした時も、父は家族のみならず親戚を必死で支え、救ってくれていたじゃないか。

そして、何よりも今の私を支えているもの。唯一私の自慢だったもの。それは「本」だ。どの友達よりもたくさんの本を買ってくれた。毎月新しい絵本が届き、休みの日は大きな父の本棚の前で、色々な本を読んで過ごした。本は私の未来や夢を広げた。今でも本は人生のあらゆる場面で私を救ってくれている。勉強においても、仕事においてもプライベートにおいても。

お父さん。あなたは「お金は人にかける」それをずっと誰にも言わず、非難されても馬鹿にされても実行してきた人です。私は涙をこらえるのに必死だった。

結納の日、無口な父は全ての壁と畳を新調して私の結婚を全力で祝った。たった三十分の私の晴れの日の為だけに。今はさすがに寿命が来て改築した家だが、姉弟の背比べが父の手によりたくさん刻まれた、傷だらけの古い家の柱が恋しくてたまらない。お父さん。ありがとう。

優秀賞

「お父さん、ありがとう」

加藤 真弓 さん

お父さん、ありがとう。あの時、心の底から叱ってくれて、ありがとう。

「お前には、優一のあの声が聞こえんのか」と問いかける、あの時のお父さんの顔、忘れられません。それまで、一度も見たことのない、悲しそうな目で私を見ていました。

「だって、優一は自閉症なんよ。どうしたって治らんし躾ける自信もない。私自身どうしていいのか。わからん」と、泣くしかない私に、父は何度もくり返し言いました。

「優一は、必死で訴えよる。しゃべれなくても、母親にわかってほしくて必死で叫びよる」

「なんで、あの声を聞いてやれんのぞ」と。

声と言われても、当時三歳だった息子は、まだひと言も言葉が出ず、聞こえるのはかんしゃくを起こして泣き叫ぶ声と金切り声。朝から晩まで続くその声に、私はただただ耳をふさいで耐えるしかありませんでした。

そんな中、父だけは優一のかんしゃく声を「優一の言葉だ」と言いました。「父には、ちゃんと聞こえる」とも言いました。父だけが、優一を一人の人間として、対等に見つめてくれていました。

その時、私の中で、何かが変わりました。
「優一の『心の声』をしっかり聞いてやらなければ」

あれから十年、こんな私でも、何とか心折れることなく優一を育ててこれたのは、あの時お父さんが私を叱ってくれたから。

お父さんが優一の心の声に気づかせてくれたから。お父さんが優一の心に寄り添ってくれたから。優一を叱る時は、障がい児だからと甘やかさず、がつんと叱ってくれたから。優一を、誰よりも笑顔にさせるのもお父さんだったから。

まだまだ、子育て真っ最中の、迷ってばかりの母親だけど、「私は、お父さんの娘なんだ」と思うと、自然と勇気が湧いてきます。私の身体には、お父さんの血が半分流れていて、私の頭の中には、お父さんにもらった言葉がぎっしりつまっているのだから、こんなに心強いことはありません。

お父さん、お父さんの娘に生まれて、お父さんの娘として生きてこれたこと、誇りに思います。

お父さん、ありがとう。
愛してくれて、本当にありがとう。

「あんちゃんありがとう」

永島 裕子 さん

五歳年上の兄は中学生の頃、牛乳配達のアルバイトをしておりました。時折貰ってきてくれるマミーや、大きな瓶に入った牛乳を少しだけ分けてもらうのが何よりも楽しみでした。

小学生の頃、お誕生会というのが流行っており、冬のある日友達の誕生会に呼ばれました。その頃我が家は貧しくて、新しい洋服などめったに買ってもらえず、友人達はよそいきの洋服でしたが私はいつもの古い服で出席しました。奥様ごっこが始まりコートを交換し合う事になりましたが、私のくたくたになったコートは誰も選んでくれず、自分で着たのです。

帰り道、我慢していた涙がぼろぼろこぼれてきました。家族にもそんな話はできずにいましたが、少しして兄からプレゼントを貰いました。袋を開けてみると、中から新しいワンピースが出てきました。私は嬉しくて嬉しくて天にも昇るような気持ちになりました。子供だった私には自分の事しか考えられませんでしたが、兄が眠い目をこすりながら、雨の日も雪の降る寒い日も、毎日頑張って働いて貯めた大事なお金だったのだと思います。

それからしばらくして、兄が歌を作ってくれました。「昔アフリカのジャングルに一匹のカバがおりました」という歌詞で始まるのですが、私はこの歌が大好きでいつも口ずさんでいました。カバは自分の醜い姿を悲観して、カモシカのような足になりたいと神様に何度も願い、やっとその願いは叶うのですが、幸せにはなれなかった、という内容の歌でした。

その頃は意味も考えずに歌っておりましたが、「あるがままを受け入れて一所懸命生きようよ」というメッセージが込められていた事を後になってから感じました。その後も、「十戒」という洋画を観に映画館に連れて行ってもらい、映画の素晴らしさを教えてもらった事、初めて食べたピザの味、兄からはいつも愛情を頂いておりました。

中学二年生の時、友人の母親の心ない一言から、兄とは母親が違う事を知り、大きなショックを受けました。でも、その事を幼い頃から知っていたであろう兄からは、そういう気配さえ感じた事がありませんでした。父から譲り受けた小さな写真館が、現在では多くのお客様の支持を頂けるまでになりました。兄の仕事への原点は、「人を喜ばせたい」。ただ、ただ、その事に尽きると思います。

大切なものをたくさん授けてくれた兄に心から感謝の気持ちを伝えたいです。
「あんちゃん、ありがとう」