第3回「心に残る、ありがとう!」体験談 贈賞式

本賞は、応募総数5490編の中から、厳正な審査で入選作20編を選び、2011年1月20日、ホテルグランパシフィック ル・ダイバにおいて、中西進氏(選考委員長・国文学者)、夏樹静子氏(作家)、山折哲雄氏(宗教学者)による公開選考会を行い、上記のとおり決定しました。

大賞発表

    最優秀賞
  • 「一分一秒にありがとう」

    梶田 涼子 さん

    優秀賞
  • 「ありがとう」

    岡原 生泰 さん

  • 「七十七歳の母さんへ」

    大髙 富子 さん

    入選者
  • 「姉の優しさが教えてくれたこと」

    安部 美江 さん

  • 「冬の贈り物」

    井上 幸信 さん

  • 「生まれてきてくれて、ありがとう。」 

    扇野 睦巳 さん

  • 「たった一人のお兄ちゃん」

    大浜 久美子 さん

  • 「腕」

    岡村 充浩 さん

  • 「人からの「ありがとう」に有り難う」

    沖本 一二三 さん

  • 「又逢う日まで頑張って生きていきます」

    甲斐 美智子 さん

  • 「母への感謝」

    菊池 正人 さん

  • 「フセイン大統領」

    髙坂 一生 さん

  • 「お姉ちゃん、ありがとう」

    小林 裕司 さん

  • 「人生で一番大切な一週間」

    佐々木 唯 さん

  • 「一円の想い出」

    塚崎 ひとみ さん

  • 「仕事の楽しさを教えてくれた父」

    永易 啓子 さん

  • 「頑張り」

    能勢 道彦 さん

  • 「娘からのありがとう、そして、私からのありがとう。」

    藤野 扶佐江 さん

  • 「妻の母に対する愛情表現」

    安山 登志三 さん

  • 「父にありがとう」

    山内 恭輔 さん

最優秀賞

「一分一秒にありがとう」

梶田 涼子 さん

「涼ちゃん、もう社会人になったんだね、夢みたい」
私を小さい時から知る人は皆こう言います。それもそのはずです。

私は生まれてから三年間、入院していました。理由は、腸閉塞という腸の病気です。当時は、原因不明の病気でした。生まれて間もなく、吐くようになり、病院に連れていくと即入院でした。家でほとんど過ごすことなく、私の家は病院になりました。

両親も楽しみにしていた家族三人の生活とは裏腹に、二重生活が始まりました。私に付きっきりの母と仕事があるため、家に帰る父、病院と我が家の二重生活です。

また、祖父母も毎日お見舞いに来てくれました。私は、父も母も共に長女長男だったため、一番最初の孫でした。だからこそ、本当に大事にしてもらいました。

私のお腹には、今もはっきりと大きな傷があります。この病気のため、0歳のとき手術をしたからです。

しかし、手術後の調子は思わしくなく、結局、一歳の時、またお腹を開くことになり、二回目の手術をしました。

二回目のあとも、良くなるどころか、二回したことにより、悪化してしまい、結局どうすることもできないと医者に言われ、家から自動車で三時間もかかる病院に移ることになりました。

移ってから少しの間、調子がいい日が続いたのですが、それも束の間、点滴が入らなくなってしまい、それでは栄養が入らなくなるのでということで、胸から点滴をすることになりました。

小さい体では、耐えられなくなり、最後ということで、三回目の手術をしました。私に命の期限を切った最後の手術です。

このあと、手の施しようがないので連れて帰って下さいと言われたそうです。 なのに、今元気になってるのはなぜかというと、今でも分からないそうです。

強いていうなら「奇跡」だそうです。

私は、もう一度生きるチャンスをもらったと思っています。だからこそ、今生きている一分一秒を大切に感謝して日々を送っています。そして、明日があるからと後回しにするのではなく、この一瞬を大事にしていきたいと思います。

また、人との出会いも同じです。一期一会だと思います。社会人になって今まで以上に多くの人に出会いました。この出会いを大事にしていきたいです。

今、この一瞬にありがとう。

優秀賞

「ありがとう」

岡原 生泰 さん

僕は、筋ジストロフィー症候群と言う難病を持って生まれました。徐々に筋肉が衰えていき歩けなくなり、やがて寝たきりになります。

心臓の方も衰えて、二十歳前後で心不全や呼吸不全で亡くなると言われていますが、近年では医療の進歩により、寿命が延びて来ています。

今年二十二歳になり、死に対する不安はありますが、多くの人との出会いで励まされています。同じ境遇の仲間には、辛いのは自分だけじゃないことを教えてもらいました。

友人達は、時々メールをくれたり、逢いに来てくれるので元気を貰っています。病院関係の方達には、入院中のお世話はもちろんですが、痰を詰まらせて死にかけた時、心身ともに助けてもらいました。意識が戻った時は、ありがたくて自然と涙がこぼれました。

僕は母の再婚で三人の弟妹が出来ました。何の抵抗もなく受け入れてくれ、血の繋がりを超えた家族です。今僕は、病院を出て家族と共に暮らしています。

一緒に暮らしていることですごく負担を掛けていると思います。自分で立ち上がることも、トイレに行くことも、体の向きを変えることも、なに一つ一人では出来ません。それをみんなで、精一杯サポートしてくれます。これ以上の幸せは、ないと思います。

落ち込んでいる時も大丈夫だよと励ましてくれます。そんな家族に何も恩返しができないと思っていた時、弟や妹達が、笑って側に居てくれるだけで充分と言ってくれました。

父に、「前のお父さんにも感謝するんだよ。

前のお父さんが居なかったら、お前は生まれてないんだから」と言ってくれました。その時、父のことを心からかっこいい、すごいと思いました。

父に出会うまで女手一つで育ててくれた母は、病気に負けてほしくないという気持ちで、厳しくたまに優しく育ててくれました。

自分のことよりも真っ先に子供のことを気遣ってくれます。叔父や叔母、従兄弟達も僕のことを考えて一生懸命協力してくれます。

時間が許すかぎり、家族と共に暮らしたいです。今まで出会った人達に、言葉じゃ表せないぐらい感謝しています。

本当にありがとうございます。

そして、何よりも家族にありがとうと伝えたいです。

障害があることは不便ですが、決して不幸ではありません。僕は、とても幸せです。これからも感謝の気持ちをずっと持ち続けたいです。

「七十七歳の母さんへ」

大髙 富子 さん

「母さん」この年になってもまだ母さんと呼びたい、大好きな母さん。気丈で辛口でいつも困らせてばかりの母さんは、最近大きく腰が曲がり大好きな畑にも毎日行けなくなりましたね。

大きく見えた母さんがだんだん小さくなってきました。 子どもの頃母さんの苦労を見て育ったのに、あの時母さんの苦しさや辛さなんて感じていたでしょうか。

ただ、一緒にいたい、いなくなったらどうしよう、母さんが大好きだったから。毎日父の暴力に耐え、四人の子どもの私達を必死に守り育ててくれました。

部落一番の貧しい家だったけれど、いつもきれいに掃除して、洋服はお下がりの繰り返しだけど、いつもきれいに洗濯してきれいに繕ってくれていましたね。

子どもながらに母さんの悲しみを感じたことがありました。運動会の前日、一生懸命お金を工面してそして工夫して夜遅くまでご馳走を作ってくれましたよね。

子ども達は明日が待ちどおしく運動会より、見たことがないご馳走にわくわくしていました。けれど、夜遅く父が帰るなり暴れ、そのご馳走にストーブの灰をかけすべて食べられなくしてしまいました。

母さんは背中を丸めただただゆっくりと片付けていました。その後ろ姿が悲しくて、悲しくてたまりませんでした。

母さんなぜいつも我慢してるの、怒らないの、黙っているの、私は心の中で泣きながら思いました。母さんはどんな時も四人の子どもを守り、育て、貧しくても出来る限りの愛情を示してくれました。

幼い頃見た母さんの後ろ姿に、「忍耐、努力、人のせいにしてはいけない、責めてはいけない、逃げない」という生き方を教わった気がします。

母さんが守ってくれたから、強い愛情をくれたから、今幸せを感じて生きています。「母さん」今年七十八歳になりますね。大好きな母さんだから、まだまだそばにいたいです。

「母さん、ありがとう」